名古屋哲学フォーラム2002
「意識する心をめぐって:David Chalmers, The Conscious Mindの批判的検討」


発表要旨

自然主義的二元論を批判的に受容する ――クオリアについての物理主義的アプローチの可能性――

羽地 亮(神戸大学文学部)  

 本発表は、以下のような主張の論証を試みることによって、チャーマーズの自然主 義的二元論に多少とも親和的な、意識に関するあるスケッチを構成しようとするもの である。

(1) 心的性質の物的性質に対する依存・決定関係の主張――物理主義の主張――は、 神経生理学的な知見と齟齬をきたすので、維持できない。また、同様に、 supervenienceの原理も保持できない。心的性質が物的性質によって説明されること はありうるが、逆に、物的性質が心的性質によって説明されることもありうる。ゆえ に、クオリアが脳神経の性質によってのみ説明されるというのは、信憑性のない主張 である。

(2) しかしながら、神経生理学的な知見に支持されるような、クオリアに関するさ らに弱い物理主義的仮説を立てることができる。それは、クオリアは個別的に神経系 の状態トークンに相関するというトークン相関説と、様々なクオリアのタイプが様々 な神経系の状態の関与的な部分全体に付随し依存するという全体論的依存・決定関係 の仮説である。この仮説において、タイプとしてのクオリアについては全体論的依存 ・決定関係を認め、トークンとしてのクオリアについてはトークン相関説を採るとい うことは、対象・状態・出来事に関する物理一元論かつ対象・状態・出来事の性質に 関する二元論を採るということにほかならない。

(3) この仮説によれば、クオリア・トークンはあくまで一人称的な独特の仕方での み接近可能であるけれども、クオリア・タイプにおいては、(1)で言われたような 物理主義の主張が成り立つ。

 要するに、現代哲学におけるクオリアの物理主義的な取り扱いは、現在の神経生理 学的な知見からは支持されないので、われわれはさらにゆるやかな物理主義に依拠す るべきだ、というわけである。そして、われわれには、クオリア・トークンと神経系 の状態トークンとの「相関」(correlation)について解明するという仕事が残されて いる。

 なお、いわゆる「クオリアの逆転」と「クオリアの不在」の議論は、哲学的な議論 としてではなく神経生理学的な知見に基づく議論として擁護できるかのように思われ るが、そのような議論が成り立たないということは、チャーマーズのような思考実験 によるのではなく、本発表において提出される仮説に依拠することによって主張する ことが可能である。また、ネーゲルやジャクソンのいわゆる「知識論法」――チャー マーズが肯定する論法――が、物理主義批判として成功しているか否かという問題に も論及したい。

 以上の本発表における主張は、(1)意識体験の存在を認め、(2)意識体験が物理 的なものにsuperveneしない(チャーマーズは、論理的にsuperveneしない、と言う) ことを認め、(3)物理一元論が誤りであることを認めるという点で、チャーマーズ に同意するが、(4)物理的世界の因果的な閉鎖(causal closure)を認めないという 点で、チャーマーズに同意しない。


クオリアの問題とはどのような問題なのか? ――ハード・プロブレムと説明のギャップをめぐって――

金杉武司(埼玉大学非常勤講師)  

 本発表では、意識、とりわけクオリアをめぐる考察によって物理主義(唯物論)の 困難が示されるといういくつかの議論を検討し、本当にそのような困難があるのかど うか、そして、あるとしたらそれはどのような困難であるのかについて考える。その 足掛かりとして、まず、D・J・チャルマーズとJ・レヴァインの議論を検討する。

 チャルマーズによれば、クオリアを伴う意識的体験を持つ主体とまったく物理的に 同一でありながら、そのような意識的体験をまったく欠いている「ゾンビ」が思考可 能であるということによって、クオリアが物理的なものに存在論的に還元不可能であ ることが示される。しかし、レヴァインは、このような「思考可能性論法」は妥当な 議論ではないと批判する。レヴァインによれば、異なる概念が同一の指示対象をもち うる(同一の指示対象が異なる提示様式によって提示されうる)ということを認める ならば、あることが思考可能でありながら、形而上学的には不可能であるということ が理解可能となるからである(同一の指示対象をもつ二つの概念「A」と「B」の間 に概念的連関がない場合、「A∧¬B」は思考可能であるが、「A」と「B」の指示 対象が同一である以上、AでありながらBではないということは形而上学的に不可能 である)。

 それでは、思考可能性論法によって形而上学的帰結を導くことができないとすると、 物理主義には何の困難もないことになるのだろうか。レヴァインは、存在論的問題で はなく、「説明」という認識論的問題において物理主義は困難に直面すると言う。レ ヴァインによれば、物理主義が正しいとすれば、なぜある現象が生じるのかが物理的 に説明されねばならない。そして、その「説明」とは、被説明項の記述を説明項の物 理的記述から導出する演繹でなければならない。しかるに、F・ジャクソンの示した メアリーの物語によれば、クオリアがこのような感じであるということを物理的記述 から演繹することはできない。それゆえ、レヴァインは、クオリアに関しては「説明 のギャップ」が存在すると言う。

 レヴァインは、この「説明のギャップ」が物理主義にとっての困難であると言う。 しかし、本当にそのようなギャップはあるのだろうか。そして、仮にギャップがある としてそれは本当に物理主義にとっての困難であると言うことができるのだろうか。 さらに、そのギャップの存在は本当に存在論的問題とは独立なのだろうか。これらの 問いに答えるには、説明のギャップとは何かをより明らかにする必要がある。本発表 の後半では、これらの問いに答えるべく、説明のギャップの内実をより明らかにする ことを試みる。ここでその詳細を論じることはできないが、結論としては、説明のギ ャップの存在を認めることは物理主義者に可能な選択肢ではない。それは、説明のギ ャップの存在が、レヴァインの考えに反して、物理的性質とは本質的に異なる非物理 的性質の存在を示す存在論的な問題を物理主義に投げかけるからである。しかし、メ アリーの物語がわれわれの直観に適うように思われる限り、説明のギャップの存在を 否定することはできない。したがって、物理主義は非常に困難な問題に直面すると考 えられる。(とは言え、二元論を選択することもまた多くの困難に直面することにな ると考えられる。この点も時間があれば論じたい。)


Conceivability Argument はどこがおかしいか

棚橋哲治(名古屋大学文学研究科博士後期課程)

 Chalmers(チャーマーズ?)は、「我々はIQ(inverted qualia)やAQ(absent qualia)を想像することができる」という前提と、その他の前提(スーパーヴィーニ エンスがどうとか、必然性がこうとか)から、「物理的性質には還元できない性質が 存在する(=物理主義は間違っている=性質二元論が正しい)」という結論が論理的 に出てくるという。この論証はConceivability Argument(以下CA)と呼ばれてい る。 

 私は物理主義者としてCAを批判したい。通常、このような議論に対する批判は、 前提に間違いはないか、隠れた前提はないか、推論に飛躍はないか、多義的な表現は ないか、等々、という観点(論理的観点、と呼ぼう)から行われる。上のCAの大雑 把なまとめ方からも推測できるように、今回は論理的観点からではないCA批判を試 みたい。理由は以下の通り。

 CAは論理的にどこかおかしいところがあるのだろうが、それ以前に、内容的にC Aのような論証をすること自体がおかしいと思う。Chalmersの出す結論は、ある理論 (性質二元論)が正しくて、別の理論(物理主義)が間違っている、というものであ る。そんなことが〈論理的に〉出てくるものだろうか。理論・仮説の優劣は、(説明 力・予言力などから)どちらがよりもっともらしいか、という形でつけられるものだ ろう。また、今のところ正しいと思われているどんな理論も、将来反証されてしまう 可能性がある。これらを考慮に入れれば、ある理論が正しいことが論理的に出てきた、 という議論は、それを作り上げようとすること自体が変だと思われる。

 前提の「我々はIQやAQを想像することができる」は、「前提」という枠から離れて みると、一つのデータである。思考実験という怪しげな実験の結果だが、データと見 るべきだろう。そうすると、CAはたった一つのデータを根拠にして理論を選択して いることがわかる。前段落で述べたように論理的に理論を選択することはできないに しても、これでは「よりもっともらしい」という形で選択することもできないだろう。 データが一つしかなければ、それを説明する理論はいくつも考えることができて、ど れか優れているかを決めることができないだろう、ということである。

 これに対して「思考実験IQ・AQは決定実験であり、それによって物理主義は反証さ れたのである」という反論があるかも知れない。この想定上の反論には、過小決定の 話を持ち出さずに応えたい。反論が正しいとすると、物理主義が反証されて落胆した 物理主義者は「嗚呼、IQやAQを想像することができなければ物理主義は反証されなか ったのに」と悔しがることになる。私の直観では、これはおかしい。直観の中身につ いては、フォーラム当日までに検討しておきたい。

 発表のポイントは、「我々はIQやAQを想像することができる」と「性質二元論が正 しい」を、前提と結論、と見るのではなく、データと理論、と見よう、ということで ある。


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